二日坊主娘

映画や本、音楽や人物などについて書くと思います。たぶん…。

誰かを「先生」と呼ぶことのリスク

おはにちは。

 

春野早苗です。

 

風は秋、気温は夏、な感じで

運動会とか体育祭とかやっていた頃を思い出す今日この頃です。

 

 

運動会も体育祭も好きではなかった気がしますが

あの絶妙な空気は今も好きです。

 

それにしても、あの頃はよく反抗せず

運動会とか体育祭とかの練習をしていたなあと思います。

 

もうムリですね…

 

炎天下、集団、驚くほどコワモテな体育の先生…笑

 

世界は学校だけではないのだ、と知った今となっては、もう頑張れない。

 

 

 

あの頃なぜ頑張れていたかというと

多分、外の世界を知らなかったからだと思います。

 

世界は広くて、コミュニティーの数だけ文化があって、

何かをやるための方法や何かに対する価値観は色々あるんだ、ということを

 

よく知らなかったから頑張れたっていうのがあると思います。

 

 

従うのが当たり前だと思っていた。

 

 

それで、思うんですけど

 

学校に通うことって、あるリスクを背負うと思うんです。

 

言い換えると、

誰かを「先生」と呼ぶことに生じるリスク。

 

つまり、自分が生徒になるリスクでもある。

 

 

 

これに気づいたのは、つい最近なんですけど。

 

 

学校って、楽なんですよね。

 

もちろん、規則や時間割があると自由ではないだろうし

 

ちゃんと真面目に通うとなると早起きもしなきゃいけない。

 

もしかしたら宿題に追われるかもしれない。

 

 

それなのに楽ってどういうこと!?

と思われるかもしれないけど、

 

 

たとえ自由でなくとも、早起きを頑張らなくちゃいけなくとも、宿題をこなさなきゃいけなくとも、

 

それでも

 

誰かが示してくれた道筋に沿っていればいいから楽なんです。

 

自分で考えて、自力で道を切り拓く必要がないから楽なんです。

 

 

待っていれば向こうから、

課題や宿題が提示される。

 

それの善し悪しを吟味する必要が自分には無くて、

ただそれをこなせばいい。

 

そうすれば多分卒業できる。

 

 

学校に通うことは、どこかの集団に属することにもなるのですが

 

どこかに所属している場合、

その集団が良しとすることに従っていれば大体問題は起きないので

 

その方向性が自分にとって良いのかどうかを判断する必要もない。

 

 

正しい方向を、誰かが示してくれるんです。

 

 

しかも、ただの集団ではなくて

学校のように先生がいる場合はどうだろう。

 

その正しさは、より確かなものに思えてくる。

 

先生が言うことを、とにかく素直に聞いていれば

間違いないだろうと思って疑わない。

 

 

 

私は本当に、人の意見に左右されやすいので

 

自分にとって影響力のある人が右と言えば、右に行くのである。

 

良く言えば素直、悪く言えば情けないほど流されやすい。

 

(それなのに親の言うことだけは一切聞かないのはどういうことか。)

 

 

そんな流されやすい私にとって、

 

社会にはあまりにも多くの情報が溢れすぎていた。

 

どれを信じていいのかわからなかった。

 

何か道しるべが欲しくて、

 

学校を卒業してからずっと、(無意識的にですが)先生を探していました。

 

 

私の前に、たくさんの先生が現れました。

みなさん魅力的だったし、本当にお世話になりました。

 

 

でも、ふと思ったのです。

 

 

 

 

それでいいわけ?

 

 

 

自分のことなのに、

自分の頭で考えられなくて、自分の決断で進めなくて、

 

 

 

それでいいわけ?

 

 

 

 

あるとき、私の

「演劇の勉強をしたいのでそういう学校に入ろうと考えているが思うか。」

という問いに

 

「学校に通う必要が本当にあるのか。」

 

と返した人がいます。

 

「学校に行けば、たしかにたくさんの情報が手に入るかもしれない。

素晴らしい先生から学べるかもしれない。」

 

うむうむ、その通りである。

 

「でも、学校に入るとそれで安心して受身になるんじゃないですか。」

 

多分そんなようなことを言われた。

 

 

多分、というところが肝である。

 

その人の言葉の意味を、私はまだ充分に理解していないから

虚ろにしかおぼえていないのである。

 

 

 

その後の言葉は覚えている。

 

 

「私も、アメリカの学校で技術を学びました。とても高いレベルの教育を受けました。

素晴らしい先生もたくさん居て、多くのことを学びました。」

 

ほうほう。

 

「しかし、学校を卒業した後に実践の場で磨いた技術に比べれば、学校で磨いた技術など取るに足らないものでした。」

 

 

うーむ。

 

 

 

私は元々、このような考えを持っていた。

 

 

お医者さんの場合、

人によっては何回も浪人までして医学部に入学し、六年間ものすごい勉強をして、

その後研修医として鍛えられ、

それで、ようやく一人前になる。

 

そうでない医者のことを、人は『ヤブ医者』と呼ぶ。

 

なのに俳優は、人によっては学校にも通わず

 

充分な技術が身についていないにも関わらず、

いきなり「俳優です」と言い始める。

 

それは、『ヤブ俳優』ではないのか?

 

それで、

「学校に通えば少しは安心できるかも」みたいな甘い考えだったのだけど

 

例の、「学校に通う必要が本当にあるのか。」

 

という言葉は、そんな甘い考えを見透かしていたかのような鋭さだなあと思う。

 

 

安心など、一生できないのだ。笑

 

充分な技術など、一生かけても身につかないんだから。

 

 

(こういうふうに思ったもう一つの背景には、

楠本イネさんという日本初の女医さんについて知ったせいもある。

彼女、超凄腕のお医者さまだったけど、医師免許は持っていなかったらしい。

それを知って、ヤブ医者上等☆と思ったというのもある。)

 

 

私に、「学校に通う必要が本当にあるのか。」と言った人は、

 

「あなたは二十年前後の学校生活に、思考を侵されている。」

 

とも言った。

 

 

誰かから何かを学ぶ、という

恐るべき受動的な姿勢が身についているということである。

 

 

受身になった瞬間、多くの物事は私の横をすり抜けていくというのに。

 

一見すると効率の悪そうな独学こそが

一生の、本物の力になるのではないだろうか。

 

 

ここで改めて結論を述べると、

 

誰かを「先生」と呼ぶことのリスクとは

 

自分を受身の姿勢にする魔力が働く、というリスクである。

 

 

 

 

 

それで、具体的な策としては

 

実践を踏む中で、これは必要!と思ったものを個別に稽古し

 

その稽古をする際に先生が必要な場合に限り、

先生に習いに行くことにした。

 

 

何を習得したいのかハッキリさせた上で、

その道のパイセンに教えを乞うということである。

 

 

で、もう既にいくつかは明確にあって

 

ただ、一気にやると習慣化できないので

 

一つずつ丁寧に始めていこう、というところ。

 

 

 

今日は、かなりアツイ記事になりました。

 

 

 

シャワーでも浴びよう。

 

 

 

追記:学校に通った方、通われている方を批判する記事ではありません。

   人それぞれに考えがあり、その方その方により方法は様々です。

   今後、もしかしたら私も学校に通うかもしれないし、

   学校に通うこと自体が良くないだなんて、これっぽっちも思っていませんので。

   ご理解いただけるとうれしゅうございます。

 

 

 

春野早苗